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神話の世界!?はじめての熊本その7(2002年9月21日〜23日)

 しかし、この熊本城、なかなか天守閣にたどり着けないぐらいたくさんの施設があるわけすが、その一つ一つが随分と大きい様に思います。小柄な日本人、特に江戸時代の人というと、現代人と比べても小さいわけですが、広い敷地に大きな通路、点在する施設と、電話なんか無い時代ですから、ちょっとした伝えごとを行うにも、なかなか大変な作業だったことだろうと思います。馬に乗れない身分の方が城に入ろうものなら、それだけで疲れてしまいそうな感じです。
 いよいよ天守閣に登るわけですが、工事中ということもあって、大きなスロープを登って天守閣のある石垣を登っていきます。ず〜っと下から見上げる感じになっていたのですが、ここでようやく5層構造のお城に面と向かうことができます。が・・・、下から見上げた方が天下の名城らしくていいですね。目線が同じぐらいになると、どうもスケールダウンする様に思えました。

 と、天守閣からの出口で明治時代の様な服を来た方が紙芝居をやっておられました。なぜ、お城で明治時代の服装なのかは謎だなぁなんて思いながら近づいていくと、どうやら終わりに近づいている様でしたので、最初からみようと、その紙芝居が終わるまで売店近くで飲み物を購入しようとうろうろとしておりました。お水を購入して戻ってくるとちょうど終わったところでして、椅子に腰掛けます。さて、どんな話なのかな?と思って待っていると、紙芝居をやるお兄さん、お姉さんも片づけはじめて・・・。ありゃりゃ?と思っていたら、突然、「何奴、怪しい輩でござるな」と天守閣の城壁から声が。と、そちらを見上げると、今度は忍者が現れました。お城に忍者。なかなか良い組み合わせだと思います。でも、私はその忍者よりも、紙芝居の内容の方が気になるんですが・・・。時間は、ちょうどお昼時。紙芝居をやる方もお昼休憩なのだと思いますが、残念でした。次回は、いつやるのだろう?と疑問に思いつつ、あきらめて、天守閣の見学をすることにしました。

 熊本城の天守閣は、大天守閣と小天守閣の2つがあり、公開されているのは、大天守閣の方のみでした。大天守閣が城主、小天守閣が細君のためにあったそうです。中は、加藤家、細川家、そして西南戦争に関しての資料を中心に構成されています。その中でも特に目を引くのが、「城主求む」のポスター。なんでも、熊本城の復元整備の為に、寄付金を募っているそうで、確か1万円以上を寄付された方を城主として認定し、城主証を発行、名前を熊本城内に掲示するとのことです。こんな寄付金の募り方も面白いものだと思うのですが、その城主証にどんな特典があるのは謎のままなんですが・・・。城主さんですから、こんご熊本城にこられた時はフリーパスで入城することぐらいはできるのかな?
 1階には、復元前の石垣があり、石垣の中で石垣を見るというのも不思議なものだと思いながら、階段をあがります。昭和35年に復元されただけあって、宇土櫓と比べてしっかりとしており、鉄筋コンクリート作りの様です。大坂城の様にエレベータは無い様でしたが、階段なんかを見ていると、ビルの階段の様に思えます。
 2階からの資料室は、ジオラマや甲冑、食器など、さまざまなものが置いてあります。私が、特に気になったのが、西南戦争関係の資料で、西南戦争に関しては主に西郷隆盛が決起したということ以外にあまりよく知りません。西郷隆盛というと、鹿児島の人ですから、なぜその西南戦争と熊本が関係があるのかすらもわかりませんでした。国内唯一の内乱ということ以外によくしらなかったのですが、ここ熊本城は、官軍と決起軍が戦った激戦地だったそうです。その激戦の際に、熊本城が焼けたのかなと思っていたら、どうもそうでは内容で、決起軍が攻めてくる3日前に、原因不明の失火で消失したそうです。諸説紛々といった感じで、決定的な証拠も何もなく、今も失火の原因は闇のままだそうですが、失火で焼けた後もこの熊本城は城としての機能を果たしたそうで、結果として、50日の籠城に耐え官軍に勝利を導いたそうです。西郷隆盛の書なども置いてあり、近代日本への変化を考える上では、なかなか面白い資料が整っていると感じた熊本城でした。

 最上階の天守閣からの眺めは、宇土櫓の眺めよりもさらに高い位置になるわけでして、江戸時代の町並みを思い浮かべると、素晴らしい景色であったのだろうと、容易に想像が着きます。今、天守閣から眺める景色もかなり高い位置からですから、素晴らしい眺めに間違い無いのですが、ところどころにあるビルや鉄塔なんかが、当時は無いわけですから、今よりももっと感動的な風景だったのだろうと思います。

 天守閣を後にして、今度は細川刑部邸へ向かいます。場所は、熊本城の敷地から離れたところにあるのですが、その道中にもまた何か復元工事をしている様です。復元予想図があるのですが、ここまで復元するの?というぐらい、たくさんの施設を作る様で、これはまさに、「お城ランド」の様です。観覧車なんかは無いとは思いますが、沖縄県の首里城の復元工事も驚きましたが、こちらの熊本城もそれに勝るとも劣らないそんな復元工事だと思います。これだけの復元工事を行うわけですから、そりゃぁ、たくさんの城主さんを募らないとやっていけないといった感じです。

 駐車場の横は、これまた大きな敷地で、お弁当を広げていたりして楽しんでいる人が大勢います。そこかしこで、球技なんかをして遊んでいる人が大勢おり、熊本市の中心的な公園なんだなぁと思います。その芝生を歩いて、刑部邸へ向かうのですが、ふと看板が目に着きました。
 「公園内でのスポーツ行為は禁止します」
 これはさすがに驚きました。これだけ大きな敷地でスポーツ行為全部を禁止するってのは、横暴だろうと思えるのですが・・・。球技は危険なので、禁止するってのはよくあるとは思うのですが、走る、飛ぶなどの行為全部が禁止されるってのは、どういうことなのかと不思議に思いました。いったい誰がこんなこと決めたんだ?と熊本市を疑いそうになります。この文だと、ウォーキングも禁止ってことになりますもんねぇ。まぁ、その当たりは、常識の範囲内で柔軟に対応することになるんでしょうけど、あまりにも、あまりの様な気がします。

 

 三の丸の跡地に移築された旧細川刑部邸は、その名の通り、細川家の奉行を取り仕切る分家の邸宅だそうです。二の丸跡が、ただの土だけの広場になっており、そこから三の丸の旧細川刑部邸を見ると、本当に移築してきて整備されてきたばかりといった雰囲気がよく伝わります。草木の生えぬ二の丸跡と、よく整備された三の丸跡・・・。こちらの刑部邸は、随分としっかりとしたお屋敷で、資料館というよりも、お屋敷そのものを見るといった感じなのですが、中に入ると案内人が付いてくれ、一通り刑部邸内を案内してくれます。説明付きですから、お得な感じなんですが、淡々と話がすすんで、次々に進みますから、写真を撮る暇もなければ、じっくり見ることもできないわけで、これもまた善し悪しだなぁと感じました。でも、案内人が付いてくれたおかげで、いつもなら 読みとばすところも聞けたと思います。ある程度の説明で終わって最後は自由見学なんかになっていると良かったんでしょうけど、案内が終わると、もう出口って感じでして、靴まで容易されていると、小心者の私は引き返すなんてことは出来ないんですよね(^^ゞ
 ところで、この刑部邸は、細川家にゆかりの品がいろいろと置かれているのですが、気になったのが冬用の寝間着。布団の様に中に綿が詰められた着物なのですが、あの上にまだ布団かぶるのかな?と思うぐらい分厚い生地なんです。寝返りうつのも大変そうって思いました。考えようによっては、布団を蹴ることは無いですから、寝冷えをしないので、良いかもしれません(^^ゞ

 

 思っていたよりも刑部邸が短く済んでしまったので、さてどうしようかと思ったら、市立熊本博物館があることに気づきました。こりゃ、ちょうどいいと思い、そちらへ向かって歩いてくと・・・見事に休館日。日曜日は開いているそうですが、どういうわけか祝日はお休みとのこと。市民の為の施設なんだから、祝日もやっててほしいなぁと旅人は思うわけです。お城も刑部邸もやっていたわけですから、博物館も開館してくれててもいいのに・・・と残念に思いながら、熊本城を跡にすることにしました。
 熊本城の城壁を眺めながら、歩いていると、城壁や門も復元を行っているようで、熊本城の復元工事にいったいどれだけの費用がかかっているのかと驚いてしまいます。確かに中途半端な復元を行うならば、これぐらい徹底した復元を行った方が良い様に思います。

 

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