ホームページへ戻る

中国地方編に戻る

その3へ戻る

その5へ進む

雨の奥出雲 その4(2003年2月22日〜23日)

 

 結局、なんだかんだとしていると2時間弱ほど見学しており、この後の行程にも差し支えるので、菅谷たたらに移動しました。菅谷たたらは車で約5分程度のところにあります。鉄の未来館でいただいた地図にみると、『山内生活伝承館』で車を駐車し、そこから徒歩5分とありました。近づいてくる、同時にどんどんと山深くなっていき、果たしてこの方向であっているのか?と少し疑問に思っていると、こじんまりとした建物と駐車場がありました。

 

 その建物こそ、『山内生活伝承館』で、その前に観光客とおもわれる中年の女性が二人待っておられたのですが、私が車を駐車しているすきにどこかにいかれたのか、姿が見えなくなっていました。
 山内生活伝承館に、受付があり『菅谷たたらを見学される方は、こちらで料金をお支払いください』とありました。といことで、山内生活伝承館の扉を開けると、これまたひっそりとしており、ストーブがたかれ、お茶と沢庵が目に入りました。その雰囲気が妙に頭にこびりついており、地元の方が結構訪れて談話されるところなのかなぁなんて思いつつ、声をかけたのですが、誰も出てきません。テレビが置いてあるものの、そこには何も表示されず、青い画面で、壁面には色々なものが陳列されていますが、あまり説明らしきものは見受けられません。生活伝承ということですから、より生活に密着したものだけが取り揃えられている様です。

 ここにいても、埒があかないので、先に菅谷たたらの方に訪れ、帰りにチケットを切ってもらおうことにしました。徒歩で200mってことだったので、普通の道だと思い込んでいたのですが、ところがどっこい、しっかりとした山道でした。雪の積もる畑を横に見ながら、川のせせらぎが心地よく聞こえ、寒さすら気持ちよく思えてきます。こういう気分にさせるのは、里山特有なのかなぁなんて思いながら、山道を下ると、民家が連なる集落にでました。あれれ?いったい、どこが菅谷たたらなのか?と不思議に思いながら、左右を見渡すと、右手の方に『村下屋敷』とありました。もしかしたら、これがそうなのか?と思って近づいたのですが、人がいるわけではなく、ひっそりとしています。道に沿って歩いていくと、『菅谷たたら』とかかれた建物が目に入りました。また、右手にはこれまた年代ものの大きな建物があり、ようやくこの集落の一部がそのまま菅谷たたらとして保存されていることに気づきました。

 と、車が2台出発するのが見え、おばさんがお見送りされていました。と、こちらの方に気づいた様で、「上から降りてきてくださったのですか?」と声をかけられました。はいと答えると、それは、申し訳ございませんでしたと挨拶され、どうやらこの方が山内生活伝承館の説明員の方だった様です。せっかくですので、このまま菅谷たたらの説明をさせてもらいますとおっしゃってくださり、菅谷たたらの建物の中、たたらで生産された鉄の固まりを粉砕する大銅場、事務所兼出荷作業を行う元小屋などの説明をひとしきりしてくださいました。
 その中ででてきたのが、『もののけ姫』話。このおばさんが話してくださったところによると、「もののけ姫」は、アニメということもあり女性の方が鞴(フイゴ)を踏んでおられましたが、実際には女人禁制だそうで、特に4本柱から中は、相撲の土俵と同じく絶対に立ち入ってはならないところだったそうです。これには、鉄の神様が絡んでいるとかで、鉄の神様が女性で、作業場に女性が入ると嫉妬していい鉄ができないという言い伝えがあったそうです。製鉄に専念するという意味もあった様ですが、説明員の方の話によると女性が入って操業した鉄は、実際、あまりいいものでは無かったとも言われているそうです。
 現代では、とんでもない大騒ぎになってしまいそうな話ですが、170年もの長きに渡って、その様にいい伝えられてきたそうです。そうそう、この菅谷たたらは170年の操業の歴史があるそうなんですが、実際は240年ぐらいでは無いかと推測されるそうです。というのも、きちんとした資料が無いことから、文献にある170年ということになっているそうですが、その他の物的なものから考えると240年が妥当では無いかと言われているそうです。確証がとれないので、確証がとれている170年ということで説明されているそうです。

 

 たたらの説明が進むにつれて、このたたらの持ち主である田部家の話にうつります。なんでも、日本で一番の山持ちだそうで、自分の土地だけで四国まで行けるといわれるぐらいの土地持ちだそうです。現在も、菅谷たたら周辺には村下(製鉄作業を行う上で重要な役目をされる方)さんの子孫の方が住んでいるそうですが、このあたりの土地は田部家のもので、毎年借地料を少しばかり支払っているそうです。また、世襲制をとっているとのことで、最近25代目の方が襲名されたとも教えてくださいました。

 ところで、この田部の凄さなんですが、その顕著な例が元小屋と呼ばれる、事務所兼出荷作業場で目の当たりにしました。というのも、この元小屋は江戸時代からのものなのだそうですが、その窓ガラスは当時から使われていたものだそうです。江戸時代に窓ガラスをはめることができる・・・いったいどれだけのお金持ちなのかと驚いてしまいました。

 この元小屋では、たたら製鉄による製作物の展示と小学生のたたら体験学習の絵などが展示されており、また大銅場で砕いた鉄をさらに細かく砕く、小銅場なども展示されていました。驚いたのは、鍬などが綺麗に制作されていたのですが、見事なまでに綺麗な出来で、こういうことをするのも村下さんの役割だったそうです。本当に、見事な鍬でした。
 その後、説明員の方は先に山内生活伝承館に戻ることになり、その後ゆっくりと元小屋を見学。二階もあり、そちらの方も開放されているのですが、この開放の仕方がなんとも島根県だなぁなんて思って、思う存分、見学させていただきました。
 ところどころに戸棚があるのですが、使用していた頃のものが、ほぼそのまま残っている様で、戸棚の中には、昭和30年とかかれた伝票があり、押入れの中には、『聞新陰山』とかかれた、古い新聞らしきものが貼られていたりして、そういうところを見ると往時の反映が偲ばれます。

 でも、やっぱり『ガラス』が気になり、下手に触って壊したらえらいことだと、恐る恐る、見せていただきます。当時の技術では、均一に成形することは難しかったのだろう思われ、厚さがひずんでいるところも見受けられますが、やはり百年以上も前のガラスと思うだけで、驚きです。この様なガラス、どこかで見たことがあるなぁと思っていたところ、出雲大社の境内の中にある「彰古館」のガラスと同じ様であると思い出しました。とはいえ、彰古館の方はもっと時代が新しい様に思うので、だとすると、この元小屋のガラスって、いったいどれくらいの価値があるものなのだろうかと思ってしまいます。

 村下屋敷を見て、山内生活伝承館へ戻ると、ストーブをたいて、先程のおばさんが待っていてくださいました。ようやく、ここでチケットを差し出すことが出来たといった感じです。最初に訪れてから、1時間半ほどの時間が過ぎていました。
 説明員の方は、まずはビデオを再生しますので、とおっしゃったのですが、てっきり15分程度のものだと思っていたら、40分もあるとのこと。時間が気になったのですが、せっかくだから、もう心を落ち着かせてみてしまうおうと思い、ビデオをみることにしました。内容は、たたら製鉄に使用する「炭」の制作に関するもので、技術保存の為に村下さんが元気なうちに撮影しておこうということで、復元製作する際に作成されたものでした。説明員の方の話では、備長炭などの様な芯までしっかりとした炭では無く、たたら製鉄には中途半端なぐらいのものが重宝されたとのことです。実際、ビデオを見ていると焼き上がりは、生焼けといった感じのものばかりでした。

 ところで、このビデオ40分あるのですが、そのビデオをみる間、サービス精神旺盛な説明員の方は、『沢庵、ひじき、干しぶどう』を出してくださり、さらにお菓子にお茶に、ぽんかん(だと思う)まで用意してくれるという、まぁ、こりゃいたれり尽くせりといった感じです。というか、これだけ出てくると恐縮以外、何物でもありません。遠慮せずにどうぞと言われるて、進められるがままいただくのですが、これが、どれもおいしいんですよね。特にひじきと沢庵はかなり沢山いただいてしまいました。ちょっと、休んでいると、さぁ、どうぞって薦めてくれるものだから、今日のお昼ごはんは、これになってしまいました(^^ゞ

 

 

ホームページへ戻る

中国地方編に戻る

その3へ戻る

その5へ進む