青森空港駐車場 10月第3週目の土・日に、青森県は八甲田山『酸ヶ湯温泉』に言ってきました。酸ヶ湯温泉は、昨年の12月以来の2度目。今回は、10月ということで、紅葉真っ盛りの季節を期待して赴くことにしました。
 飛行機は、普段と違って、関西国際空港発青森行き。この10月より、運行開始された便で、伊丹の朝の便と夕方の便を補完する様な形で、少しゆっくりした10時45分出発13時20分到着のダイヤになっています。夏期臨時増便では、Q400を使用した伊丹−青森便が同時間帯(速度の違いにより、ズレはありますけど)に運行されていましたが、今回は定期運用で関空−青森が運行を開始した様です。

 飛行機は10時45分出発ということで、10時30分より搭乗開始。10時45分に、スポットを離れて、滑走路に向かうのですが、離陸したのが11時。大きい空港というのは、何かと時間がかかるんだなぁと改めて感じました。そういや、空港横に高翼型の4発貨物機が止まっていたのですが、あの飛行機はなんだろうと、やたら気になりました。
 11時に離陸した後、大阪湾で旋回、眼下に神戸空港の建設現場が見えます。これを見ると、どうして、関空をもっと大阪市内寄りに作れなかったのかなぁと、思ってしまいます。例えば、南港の沖合なんかだったら、これほど問題にならなかったろうに・・・と思います。逆に神戸空港は、なんでこれの建設を国土交通省は認めたのだろうか?と疑問に感じます。

 

 関空というと、環境に配慮した空路を選ぶことになるので、大阪湾上空で何度も旋回しつつ高度を上げてから、ようやく名古屋方面に向かうことになります。結局、旋回上昇は15分にも及び、あらゆる面で、伊丹空港と比べると、ロスが大きいと感じます。それでも、機内案内によると、青森空港の到着は、定刻の12時20分の予定とのこと。出発時刻からおおよそ30分の間、ほとんど移動していないのに、定刻というのは何とも不思議な感じです。

 

青森空港ターミナルビル さて、青森上空に到着し、ベルト着用のサインが点灯した後、下っていきます。眼下に見える十和田湖周辺は、見事な紅葉で、山全体が赤く染まっています。これだと、八甲田山も期待できると思ったら、どうも八甲田山付近は天気があまり良く無い様子です。青森市内上空を旋回して、横風に揺られつつ、ほぼ定刻の12時20分に着陸・・・と思って滑走路を見ていると、偉く斜めに進入している様に見えます。おいおい、このまま滑走路に足を付けたら、確実に芝生に突っ込むぞという様な状態。しかし、最終の着陸体制ということで、それこそ滑走路から10mの高さまでやってきています。真横にはターミナルが見え、後方に出発待ちのA300とMDが待っています。と、着陸寸前の所、機体が急上昇し、青森空港を後にしました。これは、本当にハラハラした感じで、機体か上昇を始めた時は、窓から下を眺めても滑走路では無く、その横の芝生が見えている状態だったんですよね。

 その後、機長から横風が強く、安全に着陸出来ないと判断した為、もう一度旋回した後、再度着陸するというアナウンスがありました。結局、到着したのは、12時40分。この時も、横風が強く、機体は、かなり揺れながらの着陸だったのですが、着陸の衝撃は、ほとんど無く見事な着陸でした。しかし、今回の着陸はさすがに不安で一杯でした。

 

 空港からは、レンタカーを借りて、酸ヶ湯へ向かう予定だったのですが、とりあえず、腹ごしらえということで、空港にもどって、食事を取りました。2階のレストランひばで、「雪すずみ」というセットにしたのですが、ちょっと後悔。何も考えずに、青森の名産が沢山あるということで、注文したんですけど、「冷たい長芋そば」に「イカとホタテのにぎり」、さらに涼しげな「寒天のデザート」。4〜10月の限定で、かつこの名前なわけですから、これは当たり前なんですけど、風の強い今日注文する様な商品では無かった様です。おいしいんですけど、心底「涼んだ」感じがしました・・・。

 

八甲田山の紅葉1 さて、空港を出発して、まずは雪中行軍記念碑に向かいます。今回の旅の目的の一つが、今年7月にオープンしたという、雪中行軍記念館でしたので、とりあえずそれがあるであろう銅像のあるところに向かったわけです。途中、幸畑墓園という八甲田山雪中行軍で亡くなられた方のお墓の前を通って銅像に向かったのですが、あちらこちらの紅葉が見事で、赤く色づいた木々の道路はとっても心地よく感じます。ここまで見事な紅葉って、初めて見たのではないかと、感動しました。
 2時過ぎに、雪中行軍遭難者銅像のある銅像茶屋の駐車場に到着。さて、記念館はと見回したら、どうやら茶屋の裏手にある様です。風は、目茶苦茶は冷たく、かつ強いので、すばやく記念館へと移動することにします。入館料は200円。茶屋のお土産屋さんの方が受付を兼任している様でした。

 

 入ってみると、雪中行軍の志望者の出身地の一覧が目に飛び込みます。しかし、青森県の出身者は少なく、岩手県、宮城県出身の犠牲者が多かったのが一目で分かります。雪中行軍遭難に関してのあらましが書かれた案内があり、それを読んでようやく分かったのですが、当時、青森県出身者は弘前へ配属されることが多く、青森は岩手県、宮城県の出身者で占められていたそうです。この事も今回の悲劇の要因とされていました。
 しかし、説明としては、基本的にこれと中程に、遭難の行程だけで、後はほとんど写真と遺品で占められています。説明文が無いと、あまり良くわからないのですが、生存者のほとんどが凍傷により手や足を切断することになっていたのは、写真だけでもわかります。何でも210名の大隊のうち、生還したのは17名、うち6名は病院で死亡、11名のうち8名が凍傷をにより、手足を切断したそうです。

  

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