後藤伍長銅像1 30分程度観覧した後、今度はその銅像へ向かうことにします。仮死状態で発見された後藤伍長をモデルとした銅像だそうですが、そこへ向かうまでの約250mの道のりの風が強いこと・・・。天気もあまり良くなく、どんよりとした雲が広がっています。十和田湖の先はどうやら晴れているのが、わかるのですが、ここだけは秋というよりも冬の様な寒さです。今の状態でこれですから、それこそ雪中行軍は、想像を絶すると行っても間違いではなさそうです。その冷たい風が吹きすさぶ丘の上に、後藤伍長の銅像が今も変わらず、立っています。風は相当のもので、吹き飛ばされそうな勢いすら感じられることがあります。写真を取る指もかじかみ、手袋を持って来なかったのは、大きな敗因だと改めて感じました。
 階段を上がった所にその銅像はあるのですが、我々に背を向けて立っています。「何だか不思議な感じがするな?」と思ったのですが、後で地図を見ると、どうやらその銅像は、第5連隊雪中行軍が目指していた、「田代」を見ているのかもしれません。

 

 この銅像は、明治37年に立てられ、明治39年に除幕されたそうですので、100年以上も八甲田連峰を見つめ続けていることになるわけです。この銅像のモデルになった、後藤伍長はこの位置で発見されたわけでは無く、この位置に建立したのは、この大遭難事件を教訓とし、雪中行軍の際の目印となる様にという願いがあったそうです。竣工は明治37年10月23日。単なる偶然なんですが、私が訪れたのは、平成16年10月23日ですから、丁度竣工から100周年の日ということになります。特に行事が行われていたわけでは無いのは、日露戦争の関係で除幕が行われたのが明治39年7月23日だからなんだろうと思います。
 なお、23日という日がキーになっているのは、雪中行軍の出発が明治35年1月23日だったからだと思います。

 今も大勢の人が訪れるこの馬立場の銅像。後藤伍長の銅像を見ていると、何かを語っている様な気がしてなりません。言うなれば八甲田山の守り神の様にすら思えます。

後藤伍長銅像への案内看板 後藤伍長銅像2
 あまりの風の冷たさにそうそうに茶屋に戻ります。ぶた串というメニューがあったので、注文しようと思ったのですが、屋台で作りおきしている様な様子はありません。とはいえ、メニューにあるので、注文してみると、5分程待てるか?と聞かれました。どうやら、注文を受ける度に焼くシステムの様です。

 名物なのかどうかはわかりませんが、焼鳥のネギ間の要領で豚肉とニンニクが交互にあります。個人的には、別にニンニクはいらなかったのですが、食べてみると、これが上手いんですよね。臭いの心配はありますが、味はほどよく、食感はイモというか、ユリネというかいい感じです。300円のお値段なんですが、注文した後で一皿500円のおでんもかなり気になりました。さすがに注文するのはやめましたが・・・。

 さて、この後の行程ですが、このまま酸ヶ湯に行くのが、一番順当なんですが、どうも雪中行軍記念館は、私が思っていたものと違う様な気がすると、八甲田山の案内図を見ていると、「雪中行軍遭難資料館」というのが、目に止まりました。もしかすると、こっちなのかもしれないということで、そちらにむかうことにしました。場所は、往路に通った、幸畑墓園。あの時に、車を止めていれば、往復の時間は稼げたということになるのですが、まぁ、それはそれ。でも、目的地はこっちですので、そちらに向かいます。車で約20分程です。

 

銅像茶屋 幸畑墓地
 幸畑墓園のところに、しっかり『雪中行軍遭難資料館』の文字がありました。どうして往路に気づかなかったのか、不思議なんですが、この資料館入口の看板に大きな欠点があります。というのも、場所が書かれてある看板は、確かに資料館の入口にあたる部分に書いてあるのですが、そこから駐車場に車で入る事か出来ないんですよね。道路標識なんだから、駐車場の所に書いて欲しかったんですが・・・。道路側の街路樹が綺麗に赤く染まっており、松の木立の向こうに墓地が見えます。

 

  

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