野口英世記念館周辺は一種のドライブインの様な感じになっており、お土産屋さんと食堂が何件か並んでおり、中央に駐車場があるという形です。駐車場は無料ですが、お土産屋さん前の駐車場は常に満車の状態。裏手に町営の無料駐車場があり、こちらは、あまり人気が無い様で、空いています。距離にしたらあまり変わらないのですが、ここらあたりは目立つか目立たないかの違いの様な気がします。更に、野口英世記念館を挟んだ西隣りには、有料駐車場があります。多客時は待てないお客さんがこちらを利用するんでしょうね。

 まず、公衆トイレに立ち寄ります。公衆トイレは、先程説明した町営駐車場脇にあります。レンタサイクルもやっている様で、猪苗代湖畔を巡るコースになっている様です。こちらのレンタサイクルの貸出システムは、時間制では無く、サイクリングコースによって値段が変わっている点です。まぁ、ある程度時間によって図っているのでしょうが、レンタサイクルといえども、自由に移動は出来ない様でした。

 その向かいに、映画「遠き落日」の撮影現場ということで、民族博物館があります。こちらも野口英世記念館の見学終了後に見てみようということで、チェック。公衆トイレで用を済ましたところ、出口付近に猪苗代湖周辺の観光ガイドが置いてあり、それを手に取りました。この観光ガイドには、割引券が着いており、見事に「野口英世記念館」の50円引き券が付いていました。これは、ありがたいということで、早速、そのガイドマップをもって、野口英世記念館に向かう事にしました。公衆トイレに先に行くか、後に行くか、ガイドマップを手に取るかどうかで、割引になるかどうかですから、結構、幸運だったんですよね。

 

野口英世生家 さて、野口英世記念館に入ると、まずは野口清作の生家、母シカが洗い物をしていた川、さらに、シカが植えた桑の木、観音堂などがあります。生家は古い農家ですから、痛まない様にと、生家自体を屋根で覆っており、野口清作が東京に出る時に彫ったとされる「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」の文字がそのまま保存されています。
 良く、生家自体がきちんとこの状態で保管されていたものだと、驚いた次第なんですが、野口英世が亡くなった直後より、記念館創設に、恩師小林栄先生やメリー夫人、フレキスナー博士らが動いたそうで、11年後の昭和14年5月21日に開館したそうです。これだけ、素早い行動というのも、珍しい様に思います。

 有名な清作が火傷をした囲炉裏もそのまま残っており、古い話なんだろうけれども、目の前に現場があると、不思議と最近の話の様に感じてしまいます。縁側ではテレビで、土間ではプロジェクターで野口英世の生い立ちに関しての映像が流れています。時間にして約5分程度でまとめられたもので、野口清作時代と晩年の野口英世についての映像だったのですが、そのなかで一つ木になる事が出てきました。すっかり忘れていたのですが、野口英世の「お父さん」の話なんですよね。野口英世の伝記を読む限り、必ず出てくるのは、母「シカ」と、恩師「小林栄」先生の2人。小林先生にいたっては、野口英世自信が「お父上様」と慕ったとまで書かれてあります。では、本当のお父さんはどうだったのか?ということが、妙に気になってきました。映像では、「郵便局員として25年働き、手先が器用で、人気物であった」とだけ触れられています。たったこれだけしかふれられていないところが、良くわからず、この調子だと、妙な解釈をしてまいそうです。

 

野口英世が火傷をした囲炉裏 不思議に思いながら、今度は展示館の方へ向かいます。展示館の入口では、野口英世グッズが販売されており、Tシャツや本、鉛筆、キーホルダー、テレホンカードに、ストラップといった具合に各種揃っています。その横には郵便ポストが置いてあり、ここで投函すると、野口英世の消印となるそうです。

 さて、展示館に入ると、生い立ちから晩年までが各種資料と共に細かく展示されてあります。昔読んだ伝記の記憶を少しずつたどっていく感じで、見て回ります。新1000円札で採用された写真も展示されています。それにしても、野口英世って意外に大胆だったんだなぁと思ってしまいます。特にフレスキナー博士のところに旅立った時は、無理矢理押しかけた様な感じですから、驚きです。でも、こうやって資料を見ていると、あちこちに小林先生の援助と、母シカの思いというのが、見て取れます。特に母から息子への手紙があったのですが、これを読むと、何かこみ上げて来るものがあり、涙目になってしまいました。
 また、野口英世の功績をたたえる国の説明などがあり、これにはかなり驚きでした。もしかすると、日本はまだ野口英世をきちんと評価できていないのでは無いかと思うぐらいでした。野口英世の名前を関した学校や病院があり、いまだに野口英世がその国では生きているんですよね。また、黄熱病の研究に失敗していたとばかり思っていたのですが、実際は「アフリカ」の黄熱病では成果を上げられなかったが、「南米の黄熱病」では、50〜90%であった死亡率を10%台まで下げることが出来たそうです。つまり、南米の人々にとっては、やはり野口英世は偉大なる医者であったといえるわけです。
 ところで、研究成果を上げられなかった、アフリカの黄熱病についても少しだけ触れられており、なんでも、その病原体が濾過性病原体と言われ、野口英世の時代の顕微鏡(光学顕微鏡)では見る事ができない小さな病原体だったそうです。現在では、電子顕微鏡によって、明らかになったそうです。

 

野口英世と記念写真 2階に上がると、企画展示室になっており、野口青年の青春時代ということで、青年時代に小林先生宛に送付した手紙を中心に展示してありました。その中に父「清三」に関して、少しだけ展示がありました。なんでも、「楽天的な性格」で、「お酒には目が無い」そうです。しかし、「酒に寄って粗暴なことはせず」、「陽気に周りを楽しませる性格」だったそうです。また、逓信省で局員として25年間勤め上げたということも付記されていました。晩年は、養子に脱した次男夫婦に付いて、北海道に渡ったそうで、母シカとは別居ということになった様です。どうしてこの様になったのかはわかりませんが、少しでも触れられているということは大きなことだと思います。
 他にも、サザエさんのオープニングで使われた「野口英世記念館へ旅行にこられた時のセル画」や、新1000円札のオリジナル写真。野口英世の研究成果(狂犬病も野口英世が研究したそうです)、各種勲章などが展示されています。また、片隅に少しだけ、猪苗代の紹介コーナーがあります。

 

 手紙を一つ一つ読むものの、それは100年以上前の手紙。現代語ではあるものの、文語体であることもあり、なんともよく分からず、妙に頭を使います。また、展示説明文も丁寧に読んでいくと、えらく時間がかかり、ふと時計を見ると14時前。入館したのが11時過ぎでしたから、3時間近く展示を見て回っていた様です。最後に階段あたりで放映されている野口英世記念館製作の映像を見て、猪苗代湖畔を歩くことにしました。我ながら、良くこんなに時間をかけて見たものだと驚きました。どうやら、かなり野口英世に興味があったという表れなんだと思います。

 当初予定では、猪苗代民族博物館や磐梯山の火山博物館を見るつもりだったのですが、そんな時間は到底ありません。とりあえず、猪苗代湖畔でも歩こうということで、サイクリングコースになっている道を歩いていくことにしました。それより、昼食をとっていないので、昼食にとお土産屋さんの店頭で販売されていた「みそおでん」を4本購入。おでんといっても、こんにゃくのみです。味は味噌味です(って、見た目がかなり面白い漢字の羅列ですね〜)。この味噌おでん、お薦めできるぐらい、味噌の味がおいしいです。これをかじりながら、サイクリングコースを歩く事にしました。

  

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